政治の美学 権力と表象  :田中純








田中純 著(東大出版会)


現在、日本の思想界においてもっとも注目すべき存在の一人といってよい田中純が、『都市の詩学』(東大出版会)に続く大著『政治の美学』をこのほど刊行した(A5判・556頁+註・図表54頁・5000円・東京大学出版会)。前にこの欄で取り上げた『残像のなかの建築』(未来社)以来、主として建築を軸に広義の意味における表象領域を、凡百の表象分析論の水準をはるかに超える形で、たえず変形と越境を繰り返しながら流動し続けるダイナミックな社会/歴史空間の文脈の拡がりのなかで鮮やかに解読してみせる田中の手腕には瞠目する他なかったのだが、今回の新著はそうした田中の仕事にとっても従来の著作以上に重い意味を持つ、ある種転機の書というべきものではないかという気がする。おそらくこれまでの田中の著作を追ってきた多くの読者は本書から大きな衝撃を受けることになるだろう。

私が田中の仕事に注目してきた大きな理由の一つは、田中が表象の問題をつねに「表象されたもの」と「表象されえなかったもの」のあいだの裂け目・亀裂を意識しながら扱っている点であった。「表象されえなかったもの」とは、ある実定性を伴なって表象が成立する瞬間に消し去られてしまう表象の根源であり起源を意味している。この表象の根源=起源は「表象されたもの」が成立した瞬間消去されてしまうがゆえに、「表象されたもの」の世界においては――それは私たちが通常受容している日常世界とほぼ重なりあう――つねに痕跡として事後的にしか認識されえないものである。だがそれは同時に、ある表象の水位が形づくられる際に必ず働いているいわば表象生産の原動力というべきものなのだ。つまり「表象さえなかったもの」とは表象の成立準位から消えている表象生産の「力」に他ならないのだ。したがって表象産出の過程にはつねに産出された表象体とこの「力」のあいだ関係が、しかもそのうちに矛盾や相克を孕む屈曲した関係が存在することになる。表象体はこの「力」を否定し消し去ろうとし、「力」はそうした表象体の抑圧を押し破って噴出しようとするからである。そしてこの矛盾・相克が「表象されたもの」と「表象されなかったもの」のあいだに裂け目・亀裂をもたらすのである。それはおそらく別な角度からいうと次のように言い換えることが出来るだろう。すなわち表象体とは表象を産出する「力」が表象の産出過程のなかで別な何ものか、より正確に言えば、表象体の産出に相応しい別な「力」の形に置き換えられることによってはじめて成立可能となるのだ、というようにである。それは表象の持つ実定的な具体性、あるいはそれを支える秩序や意味上の文脈を可能にする「力」に他ならない。そして私たちはこの「力」をこそ「権力」とよぶのである。

このとき「権力」はおそらく二重の役割を担うことになる。一つはすでに触れた「表象されたもの」と「表象されなかったもの」のあいだの亀裂を充填しつつなめらかな表象空間の表層を形づくるという役割であり、もう一つは、そうした表象空間を社会/歴史空間へと連続的につなげてゆく役割である。表象空間のなめらかな表層が形づくられる過程は、そのまま社会/歴史空間の実定性が形づくられる過程と重なりあうからである。だが、というべきか、だからこそというべきか、権力の作用によって秩序化され可視化される表象と社会/歴史空間の複合体としての実定性の水位のうちには、つねにその実定性を突き破ろうとする「力」の蠢動が隠されているのを忘れてはならない。
 こうした「力」の準位は、実定性が揺らぎ始めると、いわば亀裂を覆い隠していた綴じ目を押し開くようにして表層へとせり出してくる。それは具体的には社会/歴史空間が「危機」と呼ばれる状況に陥ったときである。そしてそうした「危機」の瞬間、消し去られた「力」が突然「権力」へと回帰してくるのである。本書で田中が問題にしようとしているのは、まさにそうした「危機」の瞬間に回帰してくる「力」の様相であり、「力」の回帰によってもたらされる表象空間のねじれ・屈曲の様相に他ならない。
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田中が本書でそうした「危機」の瞬間として取り上げているのは、Ⅰ部において取り上げられている映画『民族の祭典』の作者リーフェンシュタール、映画『ヒトラー』の作者ジーバーベルク、そしてヴァイマール期の右翼義勇軍戦士を論じた『男たちの妄想』の著者テーヴェライトからも明らかなように、1930年代のナチズムの時代である。そしてそこにはさらに、そうしたナチズムの時代という「危機」の瞬間の持つ意味を根源=起源に遡って明らかにしようとする原理論的なまなざしと、ナチズムの時代が表象の準位において回帰してきた時代としての1970年代の「危機」の様相を見据えようとする表象分析的なまなざしが重ねあわされてゆく。前者は本書の中心的内容を形づくるⅡ・Ⅲ部において「男性結社論」へと結実し、後者はⅠ部におけるジーバーベルク、テーヴェライトについての考察を経て70年代のロッカー、デヴィッド・ボウイおよび「エピローグ」の頭脳警察(PANTA)についての考察へと結実してゆく。本書における田中の論のこうした時間的・領域的な振幅と論点の変幻自在ともいうべき錯綜ぶりは、ほとんどスリリングといってもよいほどなのだが、とりわけⅡ部、Ⅲ部における論の展開にはスリリングといった形容をはるかに超える、むしろ危うさ・際どさともいうべきラディカルな思考の噴出が見られる。そしてそれは従来の田中の著作には見られなかった質を含んでいるように思える。より具体的にいえば、ヒトラー自身はもとより戦間期ドイツのプレ・ナチズム的精神土壌のシンボルともいうべきゲオルゲ・クライスとその周辺の思想家・文学者、それに呼応する日本浪漫派の保田與重郎、三島由紀夫、そして保田・三島の精神圏のもっとも深い理解者であった橋川文三までもが登場するその論において田中は、厭うべきタブーとされてきたナチズム=ファシズムの精神の核心にまで手を突っ込んでいるのである。なぜ田中は本書でそこまでやらねばならなかったのか。

危機とは、権力へと「力」が回帰してくる瞬間である。この瞬間、隠されていた権力の核心が明らかにされる。そしてその核心としての「力」の回帰=露呈によって、権力が作り上げてきた秩序空間(法状態)は一挙に停止される。だからこそれは危機なのだ。だがじつはそこにはもう一つの問題が潜んでいる。権力が「力」の回帰によって揺さぶられ法状態が停止する瞬間は、同時に権力が生成する根源=起源の反復として瞬間、つまり権力(法状態)が産み出される神話的な特権性を帯びた瞬間でもあるからだ。ここにおいて危機の瞬間の持つ意味が両義化される。危機の瞬間において権力(法状態)は「力」の回帰によって破壊されずたずたにされるが、同時にそれは権力を権力たらしめる垂直な超越性としての「力」が顕わになる瞬間、言い換えれば社会/歴史空間そのものの根源=起源を顕わにさせる神話的な瞬間でもあるのである。そしてこの両義性は、実定化された表象世界が回帰する「力」によって粉々に破壊され断片化されてしまう瞬間と、表象世界の底を穿つようにして噴出する「力」そのものとしての表象世界、すなわち表象を表象たらしめる根源=起源の反復・再生としての意味を持つ超越的な表象世界の現われの瞬間の両義性に重ねあわされる。この破壊と生成=再生の両義性は、聖と俗の、生と死の、断片化と統合の、さらには美的なもの(審美性)の生成のメカニズムの持つ両義性に他ならない。そして何より重要なのはこの両義性が、本書で田中が言及しているカントロヴィッチの『王の二つの身体』、さらにはルネ・ジラールの『暴力と聖なるもの』や今村仁司の『暴力のオントロギー』などが提起してきた社会形成の起源としての暴力と表象の絡み合いの問題に深く関わっていることである。もしナチズムの根源的批判がありうるとすれば、そして根源的な意味における権力批判が可能であるとすれば、この地点まで踏み込んだ考察が前提となる。

ではこの起源の場所ともいうべき暴力と表象の絡み合いに関して田中が本書において見ようとしているものは何なのだろうか。おそらくその核心をなしているのが、ホーフマンスタールの『詩についての対話』の一節にある「いけにえ(犠牲)との一体化」のモティーフである(70頁参照)。いけにえを殺戮する暴力は、起源としての暴力(力)の噴出であると同時に、いけにえ=犠牲=代理(ルプレザンタシオン)のメカニズムによる表象(ルプレザンタシオン)産出の原動力でもある。そこにはまさに暴力の持つ破壊と秩序創造の両義性が凝縮している。ホルクハイマーとアドルノは、周知のように『啓蒙の弁証法』においてこの犠牲のメカニズムを、主体形成と権力(支配)形成の絡み合いとしての「主体性の原史」と呼んだのだった。それはまさに権力(法状態)の起源に関わるポリティクスの問題に他ならない。だがホーフマンスタールはいけにえの死といけにえを殺すものの生を一体化し、この一体化のもたらす恍惚・陶酔のうちに詩(美)の起源をみようとする。つまり詩(美)は代理=表象の拒否(生と死の一体化)において誕生するのである。この一体化はいうまでもなく権力(法状態)の内部においては成就されえない。それは「力」(起源の暴力)の回帰においてはじめて可能となるのである。だが同時にそれは、じつは俗としての次元を超えて聖なるものに定位されるもう一つの権力(主権)としての「神聖権」(田中)の形成をも促すのである。もしそれが詩(美)の起源であるとするならば、詩(美)の起源をなしているのは、いけにえをめぐる死と暴力の噴出のなかで権力(法状態)の破壊=停止が遂行されると同時に、その死と暴力が「神聖王権」(聖なるもの)として表象化されるという事態に他ならないことになる。社会/歴史空間を統べる権力形成のメカニズムは、世俗支配のポリティクスの次元にとどまらず、こうした生/死/聖/俗/法/美/・・・と連鎖する権力と「力」の両義的関係の次元においても捉えられねばならない。田中は本書においてこの両義的関係を体現するものとして、戦士共同体に代表される男性結社を取り上げているが、それは戦士たちが死の世界の住人であると同時に現実の権力体(共同体)のもっとも有能な担い手でもある――その典型が古ゲルマンにおける「ベルセルク」や古代朝鮮の新羅における「花郎」である(Ⅲ部参照)――からである。別な言い方をすれば、戦士共同体は生と死、破壊と再生の両極を自由に往還しながら、窮極的なかたちで権力を支えているのである。

社会の根源=起源としての「権力と表象」の弁証法を、もっとも根源的な準位から表層の準位にいたる幅のなかで縦横に論じきった本書は、恐ろしいまでに魅惑的である。本書の問題提起は、おそらく表象のポリティクスをめぐる今後の議論のあり方を一新するであろう。本書二対しては、思想音痴の「進歩派」からイデオロギー的断罪に近い批判が出ることも予想されるが、そんな不毛な批判に委ねるには惜しいくらいに本書の内容は豊穣であるとまずは確言しておこう。(2009.3

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